千住(センジュ)宿は日光街道の新宿(ニイジュク江戸への入口の意味)として栄えました。隅田川畔に松尾芭蕉の奥の細道の出立の時の 「ゆく春や鳥なき魚の目に泪 」の句碑があり、 隅田川(大川と呼んでいて、元の荒川の本流)を渡って江戸に入りました。
現在は隅田川と荒川放水路に囲まれた4km2ほどのエリア(内陸アイランド)が、京成電鉄で南北に分かれ 広い方の北側は国道4号、旧日光街道、JR(北千住駅)江戸時代の排水路の4本で5地区に分かれた街並となっています。また、大田青果市場のできる前は千住青果市場が東京の青果市場の中心でした。「やっちゃば」と呼ばれていました。
出身の著名人は見当たりませんが、1905〜1910の荒川の毎年の氾濫を受けて荒川放水路を計画立案した 内務官僚の一木喜徳郎、その開鑿工事の指揮をとった青山士(パナマ運河開通後直ちに1911〜1930の工事に携わる)
芸能界では、北野武兄弟、尾崎豊が路上死の場所 (道の前の地主さんが一室を開放して聖地巡礼の地となっていましたが現在はマンションになっています) また「3年B組金八先生」の舞台となった足立二中などがあります。
現在は少子化の影響で 千寿四小+柳原小が城東小(千寿四小の場所) 足立十六中+足立二中が桜堤中(金八先生の桜中に準え)(柳原小の場所)となっています。
反面、東京電機大学、帝京平成大学、東京芸大等が移転、子どもは少ないが、若者と年寄りの多い変な街になっています。




